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2001/11/15

このOBSK−netでも何度か取り上げてきましたが・・11月21日は、プロボウラー須田開代子の七回忌です。
彼女とボウリングの苦楽を共にしてきた、水島国際ボウリング会館会長
藤澤量平氏から、数年前社内報に載せた「偲ぶ 須田開代子・・」という回顧録を、OBSK−netへ寄せていただきました。
藤澤氏の一つ一つの言葉が、今また鮮やかに蘇り(よみがえり)・・天国へ届いていると思います。心から冥福を祈りします。
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偲ぶ 須田開代子 −あなたの人生はパーフェクト−
水島国際ボウリング会館
会長:藤澤量平
須田開代子さんに最初にお会いしたのは、私がボウルみずしまをオープンした昭和43年のことでした。まだ、女子プロボウラーは誕生しておりません。
当時、アマチュアのトップボウラーとして活躍をしていた、中山律子、石井利枝さんと共に招待した時です。何と明るく、ハッキリした性格の娘だろうというのが私の第一印象でした。
以来28年、ボウリングを語り、酒を飲み、人生を歌い、笑い、泣き、私の人生に須田さんは大きくかかわっております。様子が少し違ってきたのは昨年の春頃からでした。筆まめに、よく手紙を下さるのにとだえ気味になりました。お忙しい人だからと気にも止めていませんでした。
ところが、突然の手紙でガンの手術を受け、余命いくばくもないと宣告をされた言々・・・。私は急遽上京、病院にかけつけました。「あなたは強運の持ち主だから必ずなおる。その時にはゆっくり温泉にでも招待するから」と励ましました。
その後、何回か話す機会があり温泉を楽しみにしている様子、私は快方に向かっているものと信じておりました。渡米して治療に専念すると電話を受けた時すら、日本にいれば仕事は無論のこと、見舞い客も多くゆっくり静養出来ないだろうし、それも一つの選択だ位に思っておりました。
11月になって彼女の夢を見ました。何かと気になる日が続きます。
虫が知らせるという事でしょうか・・私はアメリカに飛びました。 ダラスからバアージニア州のリッチモンド空港に着き、お姉さんと渡辺栄プロの出迎えを受け、車でホープウェルの病院に直行しました。
11月15日(アメリカ時間)でした。
お姉さんの話ですと、朝4時には起きてお化粧をして私を待ってくれていたそうです。 少女のように喜んであの声で笑って、一人息子の浩平君のこと、家のこと、JLBC等々の話で約1時間がアッという間に過ぎました。
見送りに出るという彼女を病室に残して飛行場に向かいました。飛行機に乗り遅れたのは、彼女の心残りだったからでしょうか。ワシントンDC ニューヨーク カナダのナイヤガラの滝を経てダラスに落ち着き、日本に帰国する11月21日(アメリカ時間)の朝、息子から国際電話を受けました。
須田さんが、逝ったとテレビで報道しているというのです。わずか6日間、あんなに元気だったのに・・・・。12月10日には帰国するからと、それは楽しみにしていたのにさぞ無念だった事と、目の前が一瞬暗くなりました。
親友の柏谷三郎プロも今はなく、又しても須田開代子さんが逝き、嗚呼!藤澤量平 何をか思わん。
須田さん、浩平君はあなたの背中を見て育ちました。必ず立派な人生を送るでしょう。
座右の銘「生涯青春」と、あなたの意思はJLBCによって永遠に引き継がれると信じます。
私の心には、あなたの思い出が一生去来するでしょう。
"あなたの人生はパーフェクトだった" 合掌
※須田開代子・・関連記事は全て下記からどうぞ。
2001/11/7
■理想に駆け抜けた青春!須田開代子
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水島国際ボウリング会館・メモリアルイベントの主旨 −
11月21日という日がまた巡ってく来る。
プロボウラー須田開代子が1995年に逝って今年で7回忌。彼女に関わった多くの人たちの想いが一緒になる時である。
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★★ 須田開代子の好きな詩 ★ ★
青春とは心の持ち方をいう
歳を重ねただけでは人はけして老いない
理想を失ったとき、初めて老いる
(サムウェル ウルマン)
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OBSK中四国ブロック会員・水島国際ボウリング会館(代表取締役社長:藤澤太郎氏)では、11月1日から1ヶ月間【2001・11 須田開代子メモリアル月間
】を開催中だ。

先日、このイベントの記事を掲載し終わって・・ふと今回このイベントの主旨は?とう疑問が湧き起こり、再度・・担当者・岡野さん(女性)へ問いかけてたところ、1冊の本がオビスケットの手元に届いた。
(下記・・この本はOBSK-net上でも何度か紹介してきたが、私はまだ読んでいなかった・・反省)
「聞くより、読んで欲しい」と・・岡野さんの気持ちが伝わってきてたので、早速一心不乱に読んだ。
ボウリングへ情熱をささげ疾風のごとく走り去っていった女(ひと)・・須田開代子を、今でも多くの人が見守っていると感じた。
文中に水島国際ボウリング会館 会長:藤澤量平氏が随所に登場するが、須田開代子とはボウリングを通じた『同志』的な間柄であったと知り・・感銘を受けた!
★「須田開代子」という生き方−世界一ボウリングを愛した女(ひと)−
笹山生子著(チクマ秀版社)¥1,500

ボウリングブーム絶頂期の1973年当時、全国に3700件もあったボウリング場が、直後の第一オイルショック時から坂道を転げ落ちるようにバタバタ閉鎖して行った。特に単なる金儲け主義で開業したところの多くが追い込まれていった。
当然、数多く誕生したプロボウラー達は賞金では生活もままならなくなり、次第に廃業を迫られていった。
そんな中、ボウリング界の女王とまで言われた須田開代子ももちろん苦しんだが、彼女のボウリングに対する真の情熱に共鳴し、支えてくれたボウリング場のオーナーは少なくなかった。藤澤氏もその一人であった!
そして、病に倒れた彼女を見舞った最後の人でもあった・・・藤澤氏が登場する内容の一部をご紹介する。
(須田開代子が入院していた、アメリカ・バージニア州を訪ねる。*登場人物の説明は割愛 )
「須田開代子」という生き方
−第一章 あなたの人生はパーフェクトだった−
★最後の見舞客 P30-33
11月15日、日本から須田を見舞った人がいる。
岡山県にある「水島国際ボウリング会館」の会長、藤澤量平さんである。1990年6月から月に一度、須田を招き、プロマッチや講演会、撮影会を企画し、主催してきた。
68年から続く須田との固い絆と、彼女のボウリングにかけるひたむきな情熱を支援する意味から、藤澤さんは、須田のギャラを給料扱いにして社員として受け入れてきた。
須田は、この厚志に応えて、毎週おくる手紙の中で近況を報告し、ボウリングに関する情報をしたためた。
月に一度の仕事では、彼女のプロとしてのカリスマ性をみごとなまでに発揮し、さまざまな企画でボウリングの楽しみをアピールした。
その手紙が途絶えがちになり、「治療に専念するために渡米する」という報告を聞いてから約一ヶ月、藤澤さんは須田の夢を見た。まるで姉のような存在の彼女が気がかりでならない。彼は、ダラス経由リッチモンドの空港に降り立ち、絹子さんと渡辺プロの迎えを受け、須田の療養先である病院に直行した。
一方、藤澤さんが見舞いに来ると聞いた須田の喜びようは、絹子さんと渡辺プロの看病で張りつめていた心にも、しばしの幸福をもたらしてくれた。
「午後四時ごろ、バタバタという音で目覚めました。すると、ベッドの上にちょこんと座って、化粧道具を広げて開代ちゃんがメイクしてるんです。
私とお姉さんは、<ほーらっ、やってる、やってる>、と目配せしました。元気だった開代ちゃんがいつもしているように、丹念に化粧している。しかも、本当に楽しそうな表情で、そんな開代ちゃんを久しぶりに見て、私たちも藤澤さんの訪問が待ち遠しくてなりませんでした。」
そのシーンを思い出したのか、渡辺プロの声が明るく弾んだ。それにしても、血縁でもなく、好いた晴れたでもなく、沽券や休養のためでなく、一人の男が海を渡って見舞いに行く。その原動力を引き起こす須田にはどんな力があるというのだろう。
私は二度ばかり、藤澤さんを訪ねた。元重量挙げの選手だったという藤澤さんの存在感に、はじめて圧倒された。<怖そうな人やなぁー>・・・私の素直な第一印象である。
寡黙ながら、須田の早すぎた死を惜しむ無念さが伝わってくる。
「病院に行ったら、少女のように喜んでね。JLBCのこととか、浩平くんのこと、そして、目黒の家を売ろうと思っていることなんかを、いつものように、ハキハキと話していました。それと、『12月10日には絶対帰りたい』とも。病室を出ようとすると、エレベーターのところまで見送るというんです。
断って、空港に急ぎましたが、飛行機に乗り遅れてね。それぐらい話が弾んだし、元気だったんですが、・・・」
水島国際ボウリング会館のいたるところに須田の足跡が残っている。正面玄関右手のショーケースの中には、須田愛用のシューズやウェア、日常使っていた化粧品までも、また、会議室には、トロフィーやサイン、彼女の座右の銘「生涯青春」の額も飾ってある。
「プロ好みの選手ですよ。中山律子に300点を出され『パーフェクトを出すまではボウルを置けない』と精進したと思うが、経験と能力を、さらに努力で磨きぬいた須田の人生そのものが、パーフェクトだった!と、僕は確信してます。」
須田と出会って28年。共にボウリングを語り、酒を飲み、人生を歌い、笑い、泣き、藤澤さんの人生と大きくかかわってきた須田への大きなエールは、彼女の生きたいという意欲に、どれほどの追い風を送っただろう。
その追い風を受けてさえも、須田の肉体の衰退を止められはしなかった。
−第2章 光と蔭−
★プロにできること P55-56
ボウリングが大好きで、あの時期、歯を食いしばって頑張っていらっしゃった社長や支配人に、私は出会うことができました。水島国際ボウリング会館の社長さんは、全国の心センターに向け、今こそ力を合わせとき・・と、手紙を出し・・。
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本をお送りくださった岡野さん・・感動をありがとうございます!須田開代子の好きな詩・・いいですね!
この本を『読みたい!』と思われる方は、書店にて本を買われるか(20冊以上ですと、日本ボウリング場協会では1冊\1,200円で販売中。)
または オビスケットへご連絡ください。(無料です!・・1冊しかありませんので先着順。読む期間限定。送料は負担していただきます。)
2001/11/1
■須田開代子・メモリアルイベント
−水島国際ボウリング会館に吹く懐しい風!−
OBSK中四国ブロック会員の水島国際ボウリング会館(代表取締役:藤澤太郎氏)では、11月1日から1ヶ月間
【須田開代子メモリアル月間 】イベントを開催する。

【途中下車・・須田開代子について】
OBSK−netをご覧の方の中には、昭和40年代当時(1965〜1974年)、まだ生まれてなかったという方もいるはず?この40年代からの日本は、高度成長期へ突入。東京オリンピック以降一般家庭へのTV普及率が90%に達した
。昭和42年には日本の人口が1億人を突破。池田内閣の「所得倍増計画」が大成功!GNPが遂に世界第二位。この時期の好景気を「イザナギ景気」と呼んだ。昨今、経済状態が冷え込んでいる日本では考えられないくらいの破竹の勢いであった。
当時、レジャー産業の人気を一手に担っていたのはボウリング界。男女プロボウラーがゾクゾク誕生!女子プロ第一期生では須田開代子、中山律子、石井利枝などはTVブームと華やかなタレント性や実力も重なって注目の的であった。
特に須田開代子は、研ぎ澄まされた技術力・冷静な試合展開をするボウラーとして、また何事にも誠実で前向きな姿勢に多くのファンを魅了した。
須田はプロボウラーになる前の昭和39年頃は、ボウリングボールを扱う貿易会社に勤務していた。仕事上、「ボウリングを実際に知らなくては!」と始めたのがきっかけ。最初はガターばかりで興味が持てなかったらしい。
たが根っからの負けず嫌いが巧を成し、3年後にはBPAA(アメリカ経営者協議会)主催のビックイベントで準優勝の快挙を!その後様々なタイトルを獲得しプロボウリング界の女王として各団体の役員を務めながら後進の指導にもあたっていた。
残念ながら平成7年11月(1995年)、心不全のため療養先のアメリカ・バージニア州で急逝した。彼女の死はあまりにも早すぎ、ボウリング界に大きな打撃を与えた。
ここにあらためて、ご冥福をお祈りいたします。
(一部、日本ボウリング振興協議会・「写真で見るボウリング」を参考)

★= 水島国際ボウリング会館・イベント =★
【2001・11 須田開代子メモリアル月間
】

ご 案 内
一ヶ月間・・ボウリング場内に ・須田開代子プロに関する思い出の写真の展示 ・品々の展示。また思い出のビデオ映像の放映など。
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須田開代子メモリアル大
会 2001年11月24日(土)
第1シフト 15:00スタート
第2シフト 20:00スタート
参加費 6ゲームトータル 3,000円。
男女別年齢HDCP戦
お楽しみ表彰(全員賞あり)
HDCP 男女共
60歳〜69歳 5ピン
70歳〜79歳 10ピン
80歳以上 20ピン
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須田開代子思い出ビュッフェ食事会
2001年11月24日(土)
18:00〜19:30
参加費 2,000円
楽しいグッズの当たるアトラクションゲームを
用意しています。
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須田開代子・・ボウラーとしてだけではなく、彼女自身のすばらしさを思い出して忘れないで欲しい!そんな想いが込められた、たくさんの写真や思い出の品等を展示してあります。
大会に参加しない方にもご覧頂いて一緒に語り合えたら・・と、水島国際ボウリング会館スタッフ全員がお待ちしています。ぜひ足をお運びください!そして、彼女の懐かしい風に吹かれてみませんか?
上記内容は、水島国際ボウリング会館HP上からもご覧いただけます。 ⇒ こちら
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